「子供の遊び」

日本の燐寸輸出最盛期における「子供の遊び」を描いた図柄
日本のマッチ工業は、日本の近代国家の成立直後の経済発展を支えた主要な産業のひとつであった。20世紀初頭(1907〜1919)には最盛期を迎え、その生産量の8割は清国(中国)や香港、インドを始めとする輸出であった。アメリカやオーストラリアなど欧米への輸出も輸出量の5パーセントに達する。
輸出マッチの図柄は、例えば最大の輸出先である清国では、龍や鹿、猿、蝙蝠、桃、などといった吉祥図案や、故事に由来する老人や子供などが多く描かれた。インド方面は神聖の対象の象、ヒンドゥー教の神々などである。欧米やその他の国々の輸出先は多岐にわたり、図柄も多様であった。輸出先の風俗習慣、趣味嗜好に合わせてデザインされるのは当然であった。
マッチの輸出を担ったのは、日本の輸出港神戸を根拠地とする清商であったから、輸出先にふさわしい図柄の細かな指示をして日本のマッチ業者に発注したと思われる。日本のマッチ業者は清商の融資を受けた零細な企業がほとんどであったが、精緻な図柄の注文に応える確かな技術があった。活版印刷の出現で失職した瓦版や浮世絵の彫り師がいたのである。

「子供の遊び」を描いた図柄
ここに紹介する子供の遊びを描いたラベルは輸出最盛期に作られたものであり、描かれた子供の服装からおそらく欧米向け、それ以外の物は中国かインド向けと判断できる。
マッチラベルに描かれた子供の遊びは、その起源や伝搬はともかく、民族や地域を超えて同じような遊びをしている場合が多い。世界のどこでも見られるブランコやシーソーなど普遍的なものが多く、マッチを擦る大人もかつて子供だった頃を思はせてつい微笑を誘う図柄である。近代の吉祥図と言えるだろう。
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■ブランコ
図版1) サイズ: 5.0×3.2 cm
日本特許局に商標登録の申請: 岩城茂吉 (大阪)大正4年(1915)
■シーソー
図版2) サイズ: 5.6×3.6 cm
日本特許局に商標登録の申請: 福島虎楠 (和歌山)明治30年(1897)
■縄跳び
図版3)サイズ: 9.1×7.0 cm
製造は良田公司製(ほか不明)
■輪回し
図版4)サイズ:4.9×3.6 cm
日本特許局に商標登録の申請: 網干燐寸合資会社(兵庫) 大正4年(1915)
日本では、桶から外した箍(たが)を回して遊んだことから始まったといわれている。明治時代になって自転車のリムなどが使われるようになった。
■行水
図版5)サイズ:5.6×3.6 cm
日本特許局に商標登録の申請: 日本燐寸製造株式会社 (神戸)明治44年(1911)
夏場に庭先にタライ(平たく丸い桶)を置いて浸かり、手桶で肩から水を流して涼を取るなど、明治、大正時代の日本の一般的な風俗である。子供にとっても夏の楽しい遊びであった。
■馬乗り
図版6) サイズ:5.6×3.6 cm
輸出商社:信和洋行(ほか不明)
■金魚すくい
図版7)サイズ:9.0×7.0 cm
日本特許局に商標登録の申請: 藤澤末三(神戸)大正7年(1918)
金魚釣りは、中国発祥である。日本に渡り金魚すくいとなって夏祭りなどイベントの定番として人気が高い。金魚すくいは、和紙を張った枠を使って、破れるまで金魚をすくうのが昨今のルールである。
■おもちゃ遊び
図版8)サイズ:5.6×3.6 cm
日本特許局に商標登録の申請: 直木政之介(神戸)明治27年(1894)
直木は日本人の手で初めて直接輸出をした人物。のちに日本燐寸製造(株)を設立、当時業界シェア25パーセント。商標を重視し、この図柄も様々なバリエーションが商標登録されている。
■凧揚げ
図版9) サイズ: 5.6×3.6cm
日本特許局に商標登録の申請: 近藤幾之輔 (大阪)明治22年(1889)
凧揚げは江戸時代に盛んになり、今でも人気の遊びである。
■相撲
図版10)サイズ5.6×3.6 cm
製造は清燧社(大阪)(明治期、ほか不明 )
相撲は、素手の二人が土俵のなかで相手を倒すか、押し出す競技で日本の国技とされる。子供の場合でも競技として盛んだが、遊びとして見かけることは少なくなった。「TATA & SONS / BONBAY」の表記は日本郵船とインドのタタ商会が1893年に共同で開いた日本とボンベイ(現:インドの第二の都市ムンバイ)定期航路への記念と思われる。これによってマッチのインドへの大量輸出が可能になった
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